干支と方位と時の刻

 

 

現代では昔ほど馴染みはないものの、干支(えと)といえば年賀状に使ったり、節分の時にお寺さんで年女や年男が豆まきをしたりという風景を見ることができます。

 

お茶の世界でも、新年最初の茶会である初釜にはその年の干支の茶道具が使われたり、年末にはその年と次の年の干支のお茶碗を出したりなんてこともします。

(去年の初釜の福引でいただいた干支茶碗。次に使うのは2031年か。。。)

 

 

「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)…」で始まる十二支は、もともとは中国で1年12か月の順序を示すために用いられました。

 

参考記事→60年で1周!十干十二支、干支にまつわるエトセトラ。

 


昔の日本でも月日はもちろん、方位や時刻を示すのにも十二支を使っていました。

方角だと、こんな感じで現されます。
(タップすると拡大されます。)



上の図は十二支に艮・巽・坤・乾の4つ、全部で16の方位がありますが、これにさらに十干を組み合わせていきます。子と丑の間は癸、寅と卯の間は甲、というふうに。(下図参照)
五行が土である戊と己は除いて、十干のうち8つを組み合わせたものを二十四方位(二十四山)といい、卜占などに用いられます。

 

 

この二十四方位、もちろん暦にも使われています。

(慶応4年の京暦。国立国会図書館より

このページの右下に、方位神のいる方位を図で表したものが書かれています。

 

 

下がその拡大画像。
(方位神については後日記事をアップしだい、リンクを貼っておきます。)

中心の東西南北のすぐ外側に二十四方位が書かれています。
ちなみに昔の暦は現在の方位とは逆に書かれているのにお気づきでしょうか?これには諸説ありますが、ヨーロッパ人は海の上で北極星を目印にしていたので、北を上にして地図を作ったとか。古代中国では太陽を見て暮らしていたので、太陽の動きを見て二十四方位を作った(太陽が一番高い位置(南)に来る方位を上にした)ということなんじゃないかと思います。

 

 

 

そして十二支は、時刻にも使われます。

読み方は現代の時計と違いますが、1日で1周、上半分が夜、下半分が昼間になっています。
ピンクと黄色で色分けされているところが該当する十二支の刻になります。
例えば子の刻は23時から1時。23時を子の初刻、24時(午前0時)を子の正刻といいます。
よく言われますけど、「草木も眠る丑三つ時…」というのは、丑の刻を4分割した時の3番目の刻、つまり午前2時~2時半ということになります。
正午は、午の正刻という意味。午前・午後は午の正刻のそれぞれ前と後、という意味です。

 

江戸時代の時刻は太陽が出ている昼間を6等分、日が沈んだあとを6等分とした不定時法でした。
季節ごとの微調整などは行われていたと思われますが、一刻が厳密に2時間、というわけではありませんでした。

十二支の他にも明け六つ(日の出)、暮れ六つ(日の入り)、九つ(0時・12時)なんて呼び方もあるのですが、これは各地にあった「時の鐘」の数を表しています。
昔は各家庭に時計があったわけではないので、各地に時刻を知らせる「時の鐘」が設けられました。その鐘を決まった時刻(といってもだいたい)に鳴らすのですが、まず午と子を「九つ」としました。9は奇数の中で一番大きな数字で、神聖な縁起の良い数字とされていました。
「九つ」の次の刻は9×2=18、その次は9×3=27、9×4=36、45、54というふうに9を重ねて時刻を表していくのですが、それだと数が大きすぎて鐘がつけないので、十の位を省略することにしたそうです。「九つ」の次は18ではなく「八つ」、その次の27は「七つ」、その次は「六つ」「五つ」「四つ」となり、その次はまた「九つ」に戻ります。

 

江戸の時刻については、イラスト入りのわかりやすいサイトを見つけたのでこちらもご参考に。

 

お江戸の化学より 江戸の時刻制度“不定時法”
(一部画像を抜粋、加工させていただきました)

 

 

 

 

さいごに

 

方位でも時刻でも、日々の生活と結びついていた干支。

数字や順番を表すだけでなく干支自体にも陰陽や五行の気質があったというのもとても興味深いです。

それに時間の測り方も季節で変わり、腕時計ではなく鐘の音で時刻を確認していたなんて、現代とは全く違いますね。「分刻みのスケジュール」とは無縁だったんだろうなあ。

今も上野の寛永寺や川越の蔵造りの街並みでは時を知らせる鐘の音を聞くことができますよ。