旧暦と陰暦、太陰暦と太陽太陰暦の違いは?日本の暦の歴史をたどってみよう

 

(※アイキャッチ画像は日本旅行歴史協会よりお借りしました。
国宝如庵、暦貼りの茶室です。)

 

 

多くの方がご存知の通り、日本には旧暦(和暦)と新暦があります。

 

暦(こよみ)というのは、年間を通しての季節や月日、曜日や行事などを記して一覧にしたものです。英語だとCalendar、カレンダーですね。
日本語で暦という場合には、月日や行事の他に、大安や友引などの六曜、月の満ち欠けや旧暦の日付などが記されたものを指すこともあります。

 

現在公式に使われているのは新暦(=太陽暦、グレゴリオ暦)です。グレゴリオ暦は太陽の動きを基準に作られた暦で、世界共通の暦として使われています。
旧暦は太陽太陰暦のことで、日本では和暦などとも呼ばれ、月の満ち欠けを基準にしています。月の初めは新月からで、15日が満月、という具合です。

日本で太陽暦が採用されたのは明治5年(1872年)。意外と最近だと思いませんか?そして太陽暦が使われるようになってから、それまでの暦を「旧暦」、太陽暦を「新暦」と呼ぶようになります。

改暦前に使われていたのが旧暦、改暦後の暦が新暦ということですね。
もしもこの先、改暦されて違う暦を使うようになったら、現在使われているグレゴリオ暦が「旧暦」となるわけです。

 

 

太陽暦と太陰暦と太陽太陰暦

 

太陽暦はなんとなくわかるけど、太陰暦と太陽太陰暦って違うの?と思われたかもしれません。簡単に説明すると、

 

太陽暦(たいようれき)…
太陽の動き、つまり地球が太陽の周りを回る周期をもとにしてつくられた暦。
エジプトやローマ帝国では古くから使われていて、当時は地球が太陽の周りを回るのではなくて、太陽が地球の周りを回ると考えられていました(天動説)。
この周期を太陽年とか回帰年といい、一周するのにかかる時間はだいたい365.242日と計算されています。
太陽暦はこの太陽年をもとにした暦で、1年を365日とすると、毎年0.2422日(6時間弱)ずつずれてしまいます。なので4年に一度、閏日(うるうび)をつくって暦と季節がずれないように調整しています。


太陰暦(たいいんれき)…
月の満ち欠けの周期である朔望(さくぼう)を基準にした暦です。「太陰」というのは月のことを指します。
月は、約27.3日の周期で地球の周りを公転していますが、地球が太陽の周りを公転しているため、満ち欠けの周期は約29.5日となります。1朔望月をひと月として、12カ月を1年(1太陰年)とするので、ひと月が29日の月(小の月)と、30日の月(大の月)を組み合わせて1年の暦を作ります。
これだと、1太陰年が29.530589日×12 = 354.36707日になるので、1太陽年とは11日ほどずれがあり、これも季節と暦に差がでてきます。
そこで太陰暦には、閏月などを入れて季節のずれを調整する太陰太陽暦が出てくるのですが、それに対して季節のずれを調整しない純粋太陰暦というのもあり、現在もイスラム圏などで使われているそうです。太陽太陰暦と純粋太陰暦を合わせて陰暦と呼ぶこともあります。


太陽太陰暦(たいようたいいんれき)…

太陰暦に、太陽暦の要素を取り入れてつくられた暦です。
先にも書きましたが、1太陰年は354.36707日になるので、1太陽年とは11日ほどずれがあり、3年経つと約1ヶ月のずれが生じてきます。そこで太陰暦をベースにしながらも、太陽の運行も参考にして、「閏月(うるうづき)」という月を足して、その年を13ヶ月にすることで暦と季節のずれを正す「太陽太陰暦」がつくられました。

 

 

日本で暦が使われ始めたのは飛鳥時代

 

暦は飛鳥時代に中国から朝鮮半島の百斉を通じて日本に伝わりました。日本で最初に使われた中国の暦は元嘉暦(げんかれき)という暦で、6世紀ごろに伝わったとされています。

 

日本で使われてきた暦を簡単に表にしてみました。

結構たくさんあります。江戸時代に入ってからも何度も改暦されているのですね。
現在のグレゴリオ暦の前に使われていたのが天保暦なので、一般的には「旧暦」というとこの天保暦を指すことが多いです。

 

ちなみに、暦は農業にも大きく関わることですが、太陽太陰暦だと閏月が2〜3年に1度入るので、その前後の年は、同じ月や日にちでもひと月近く季節が違うことになります。それでは暦をもとに農業を行うことが難しくなってしまいます。そこで、暦の中に季節を表す言葉を入れればいいんじゃないか、ということで作られたのが、二十四節気です。
二十四節気は、太陽の見かけ上の通り道(黄道)を、春分点を起点として24等分して、太陽がその点を通過する日時によって決められます。つまり月が基準の太陰暦とは日にちが毎年ずれるんですね。でも太陽の通過点はずれないため、暦がずれていても二十四節気を見れば季節がわかるということになります。
ただ、これまたややこしいんですが、二十四節気は中国の暦に対応して作られたものなので、日本の季節とは多少のずれがあります。そこで更に「日本の気候を表すもの」を暦に追加したのですが、それが「雑節」ということになります。

旧暦の時代は、例えば「去年と今年の梅雨明けは、日にちがずいぶんずれてたな」と思っても、二十四節気で見たらだいたい同じ節気の時だった、なんてこともよくあったんだろうな。今は太陽暦なのでそこまで大きなずれはありませんが。

 

 

具注暦と仮名暦

 

暦は朝廷の陰陽寮(おんみょうりょう、暦の他にも占いや天文なども担当していました)が制定し、毎年紙の巻物で暦を作って天皇に献上していました。季節や年中行事、星宿、干支、吉凶、禁忌などが具に(つぶさに、詳細に)注記されているところから「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、これらはすべて漢字で記入されていました。(この注記事項は「暦注(れきちゅう)」といいます。)

「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、具注暦の余白部分に自分の日記を記すことが多かったそうです。暦に日記をつけていたので暦記と呼ばれます。

 

写真は、国宝になっている「御堂関白記(みどうかんぱくき)」

九州国立博物館より)


「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」
と詠んだ、藤原道長の暦記です。現在は京都の仁和寺の近くにある陽明文庫に所蔵されています。

 

 

「具注暦」は漢文で書かれていましたが、のちに仮名文字が普及するようになると、仮名で書かれた「仮名暦(かなごよみ)」が産まれました。
仮名文字は平安時代に産まれ、平安後期には仮名暦が誕生しました。鎌倉中期のものが現存する最古の仮名暦として残っているそうです。

 

こちらは万延二年(1861)、江戸後期の仮名暦です。国立天文台サイトより)

右下に「天保壬虎元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と書かれていますが、これは天保暦のことです。

 

仮名暦は江戸時代に幕府の管理下に置かれるまでは民間で自由に作ることができ、地方ごとに作られた地方暦も多数ありました。地方暦はひら仮名で書かれた仮名暦がほとんどで、薩摩暦や会津暦、三島暦などが有名です。

 

具注暦は天皇にも献上する正式なもの、対して仮名暦は漢字の読めない庶民や女性のものとして民間で広まっていきました(仮名暦が一般的になってからも、具注暦を使うことは男性のステータス的な意味もあったそうですよ)。
鎌倉時代後期になると手書きではなく印刷された暦も出回るようになり、明治5年の改暦まで広く普及していきました。

 

 

さいごに

現代でもカレンダーは私たちの生活に必須のものですが、昔は「季節を知って農業に生かす」ために、暦はまさに生活必需品だったのですね。
そして私たちが手帳の余白に予定やメモを書くように、昔の人は暦の余白に日記を書いていたなんて、なんだか面白いですね。

 

今はいろんな方が和暦を残したいと、和暦の手帳や本などもたくさん出回っていますし、調べればすぐに旧暦が分かります。三島暦も現代版が販売されています。

 

三島といえば三島茶碗。三島暦の美しいくずし仮名に似ていることからそう呼ばれるようになったと言われます。お茶碗の模様を暦(しかも仮名暦)に見立てるなんて、お茶も暦とともに人々の暮らしのそばにあったのでしょうね。