今も昔も日本人は花見好き。昔のお花見はどんな風だった?浮世絵でご紹介します。
世の中が大変な時期でも、桜は咲きますね。
今年は例年よりも早い開花だそうで、花を見ると心が和みます。
日本人の桜好き、花見好きは昔からですが、奈良時代は花見といえば、梅。
そして花見は貴族がするものでした。
奈良時代というと、当時の中国は「唐」。遣唐使によって様々な文化が日本に運ばれ、その時一緒に伝来した梅がとても人気だったとか。
梅から桜に主役が移ったのは平安時代。遣唐使が廃止されたことも桜ブームに一役かったようです。
そして花見が庶民にも浸透するのは江戸時代になってからです。
昔は現代のように仕事帰りにちょっとお花見とか、電車に乗って遠出なんてことはできなかったので、お花見といえば一大イベントでした。
何日も前からお天気は大丈夫かしらとはらはらして、前日から宴や料理の準備をして、当日は早朝から出かけたそうです。
関東の桜の名所といえば上野恩賜(おんし)公園。
江戸時代初期に寛永寺を開いた天海僧正が上野の山の随所に吉野から取り寄せた桜の木を植え、それ以来上野はお花見の名所となります(当時は上野公園全体が寛永寺の境内でした)。
現在も残る上野清水観音堂にも、当時からたくさんの花見客が訪れていました。
今よく見られるソメイヨシノは、品種改良により江戸時代になってから出てきた品種です。昔は桜といえば大半が山桜でした。山桜は、花と茶褐色の葉が一緒に開きます。
先日増上寺に行った時も山桜が本堂の裏手に咲いていました。
さて、そんな江戸の花見ですが、庶民には庶民の楽しみ方があったようです。
花見はもちろんのこと、歌えや踊れ、茶番狂言や俄(にわか)狂言と言われる即興の芝居も宴席でされることが多く、茶番劇をする時には目かつらという顔の上半分に着ける仮面を着けていたそうです。
祭りや花見のようなたくさんの人が集まるところには、目かつらを売る屋台が出ていました。
目かつらをするのには茶番狂言を楽しむ他にも、いつもと違う自分を演じる、非日常を楽しむという意味もあったようです。
鏑木清方の「明治風俗十二ヶ月」の一幅「花見」では、半玉(若い半人前の芸妓)が目かつらをつけて花見をする様子が描かれています。
向かって右側の半玉が、豆絞りの手拭いをかぶった男の目かつらをつけています。
また肩に手拭いをかけたり、着物を肌脱ぎにするのも、こうした羽目を外した格好が花見の定番だったそうです。
今もお祭りの露店でお面を売っているのはその名残りだとか。
下の絵は安土桃山〜江戸時代初期に描かれた花見の様子です。
狩野永徳の弟、狩野長信の代表作で国宝にもなっている「花下遊楽図屏風(かかゆうらくずびょうぶ)」(右隻中央部は関東大震災により焼失)。
楽器や刀を手に踊る姿が楽しそう。
普段顔を合わせることのない人々がたくさん集まるため、必然的に出会いのチャンスが生まれやすくなるというのも、人々を浮き足立たせる理由のひとつだったようです。幕で仕切られた他人の宴席を覗き見したりする人もいたようですよ。
今年は人混みの中での宴会はちょっと、、、という方もいるかもしれません。
たまには昔の時代の宴を、浮世絵の世界で覗いてみるのも楽しいですよ。