日本建築

寝殿造り〜書院造り、数寄屋造り。日本建築の移り変わりとその特徴とは?

 

日本の名城を訪れると、その多くは日本建築であり、広い畳張りの座敷があったり、豪華な襖絵や障壁画を見ることができます。
古くからその地にある寺院なども、天井は高く鶯張りの廊下があり、由緒のある仏像を祀っているところが多くあります。

 

古来からの日本の建築様式は、その時代の人々がどんな暮らしをしていたかを知るのにとても大きなヒントになります。
現代と全く違う部分や、そんなに変わらない生活習慣もあって、昔の人も色々工夫していたんだな、と思うと何だか親近感すら湧いてきます。

 

 

平安時代の貴族の住宅様式「寝殿造り」

 

寝殿造りと呼ばれる建築様式が確立したのは平安時代。当時の上流階級、つまり貴族が住んでいた屋敷の様式を指します。

 

敷地内の建物の配し方としては、一般的に知られるものとしては、「寝殿」と呼ばれる「主殿」が中心となり、「寝殿」の東西と北側には「対屋(たいのや)」が配され、各部屋は長い廊下で囲われて屏風やすだれで仕切られていました。主殿の南側には広い庭や池がつくられ、船遊びのための「釣殿」という家屋が設置されることもありました。一つの屋敷には、20人から30人ほどの貴族が住んでいたようです。

 

 


(okeihan.netより)

 

 

上記のような造りは、「家屋雑考」という本のイメージから、長い間寝殿造のスタンダードだったと考えられていましたが、現在ではあくまでも「一つの理想形」として捉えられているようです。

 

寝殿造りの建物の造りとしてもっとも特徴的なのは、壁と天井がないことです。
宝物庫や寝室として使われていたとされる「塗籠(ぬりごめ)」を除いては屋敷内に部屋を仕切る壁はなく、だだっ広い空間に丸柱がたっていて、そこにすだれや屏風を付けて空間が仕切られていました。

 

上の写真は「えさし藤原の郷」内に推定復元された伽羅御所の写真ですが、丸柱の間に御簾を吊って空間を仕切っています。
室内には天井板は張られておらず、中から見ると屋根の裏側がそのまま見えるようになっています。(ちょうど写真の奥に屋根裏が見えます。)
そのため空間がとても広く感じられますが、暖気がとどまらずに上がってしまうため、冬は特に寒さとの戦いであったと思います。


床は板敷きで、人が座ったり寝たりする場所には部分的に畳やゴザを用いました。

ちょっと見づらいですがこんなイメージです。(宇治市源氏物語ミュージアムより)

 

部屋の仕切り壁はありませんが、建物の外と中を隔てる「蔀戸(しとみど)」があり、夜間は閉じて昼間は開けていました。

(奈良・十輪院の蔀戸。Wikipediaより)

 

上の写真は厳密には半蔀(はじとみ)といって、上半分は跳ね上げて開閉し、下は掛金で留めてあり、取り外しができます。
上から下までの一枚の蔀戸は重くて開閉が大変なので、この半蔀を使うことが多かったようです。
冬場の寒い時なんかはこの方が明かり取りと防寒、両方できて良さそうですね。

 

 

平安時代に貴族が住んでいた寝殿造りの最大のテーマは、「上品であり繊細」なこと。この時代の寝殿造りは自然との調和を重視して建てられており、屋敷は開放的につくられていて、常に身近に自然を感じることができました。平安時代には四季折々の自然や情緒を愛でる和歌や随筆がたくさん残されていますが、これは寝殿造りという建築様式の確立があってこそです。

貴族の仕事はお役所勤めで、時間も夜明け〜お昼頃までだったので、午後の静かな時間に自然の中で和歌を詠んだりしていたのですね。

 

平等院鳳凰堂などの建物は「極楽浄土を現世に再現した」と言われますが、貴族の寝殿造りも、このような寺院の建築様式の影響を受けていたと思われます。

 

● 寝殿造りの代表的建物
法隆寺聖霊院
平等院鳳凰堂
京都御所紫辰殿
中尊寺金色堂
厳島神社

 

 

格式、身分序列を重んじた建築様式「書院造り」

 

書院とは「書斎」のことで、もともとは僧侶の居間兼書斎の呼び名だったそうです。それがやがて座敷飾り(床の間、付書院、違い棚など)を備えた部屋を書院と呼ぶようになり、書院を中心に建てられた住宅の様式を書院造りというようになりました。

主室である書院には、畳敷きの二畳程度のスペースに書見のための机と明かり取りの障子(→のちの付書院)、押し板、棚、納戸等が用いられ、これが現在の日本家屋の基盤となります。

 

平安時代が終わり鎌倉時代になると、政治や文化の中心が貴族から武士へと移っていきます。
鎌倉時代には住宅様式に変化はあったもののまだ書院造りと呼べるものではなかったそうですが、それに近い形にはなってきていました。
室町時代後期には書院造りの形式が確立され、書院造りは「武家造り」とも呼ばれて、身分のある武士の家には必ずといっていいほど書院がありました。

 

(名古屋城の本丸御殿。キラッキラですが、床の間の右側に違い棚、左側に付書院が見えます)

 

寝殿造りとの大きな違いは、襖や障子などの間仕切りが発達したこと。
間仕切りを取り付けるために建物の柱は円柱から角柱になります。また、雨戸や縁側なども書院造りの頃に生まれ、外回りの開口面が重くて暗い蔀戸から開放的な障子(と雨戸)へと変わっていきます。

 

そして部屋が壁で仕切られるようになったことで、部屋ごとに違った役割や機能を持つようになります。
書院は主に接客や対面の場として使われることが多く、そのため天井も作られました。

 

畳を部屋じゅうに敷き詰めた「座敷」もこの頃登場します。しかしそれによって「身分の高さを表していた敷物」としての畳の意味がなくなってしまいます。そこで部屋自体に高低差をつけた「上段の間」などが作られ、座る場所に寄って身分の違いが明確に示されるようになります。

これが現在の床の間の基になっていて、上段の間はどんどんコンパクトになっていきます。上段に座っていなくても上段に近い席に着座している者が身分が高いとされ、これが現在の「床の間に近い方が上座」に繋がっています。

 

 

本来はプライベートな書斎として使われていた書院が、時代が下るにつれて交渉や情報交換などをする接客空間となり、さらに儀式の場としても使われるようになります。
その背景には、武士の社会的地位の向上にともない、公的空間としての必要性が高まったとこがあげられます。また儀式などをしないような一般階級の武士の間でも、書院造りは接客空間として活用されていました。

 

● 書院造りの代表的建物
銀閣寺東求堂
西本願寺白書院
掛川城御殿
名古屋城本丸御殿
二条城二の丸御殿

 

 

質素で洗練された数寄者好みの建築様式「数寄屋造り」

 

数寄(すき)とは和歌や茶の湯・生け花などの風流を楽しむこと。
つまり「数寄屋」とは「好みにより作った家」のことで、転じて「茶室」の風を取り入れた住宅様式のことを数寄屋造りというようになりました。
茶室建築は室町時代からありましたが、数寄屋造りが生まれたのは安土桃山時代。当時はまだ書院造りが主流だったため、数寄屋造りは小間(四畳半以下)が多く、千利休がつくった待庵(国宝)はなんと二畳という広さです。

 

 

数寄屋造りは、書院造りと比べると質素ながら自由、かつ洗練されているのが特徴です。書院造りで重んじられていた格式や様式を極力排していて、数寄者の「内面を磨いて客をもてなす」という精神性が反映されています。
建材は、竹や杉、松や檜など、柱や床框など場所に寄っていろいろな種類の材木が用いられ、その形ももとの樹形を生かしてあることが多いです。壁も原則として土壁仕上げ、窓の形や壁の景色も様々です。

 

重要文化財である藪内家の「燕庵」。
右手前の曲がった中柱は赤松、右奥の茶道口の方立(ほうたて)は竹、写真中央の床柱(床の間の右側)と真塗りの床框には杉が使われています。


庇は長めで内部空間に光が入らないように設計され、室内に深い静寂をもたらします。茶室の太鼓襖や躙口(にじりぐち)など、他の建物では見ることのない造りもあります。数寄屋造りには数寄者のこだわりと職人の多彩な技を見ることができます。

 

(不審庵の太鼓襖)

(如庵の躙口)

 

当初は数寄屋造りの建物も、庶民の住宅にも使われるようなよくある材料でつくられていました。
「南方録」には、「名物の掛軸に合わせて床の間の天井の高さを決める(=茶室を建てる)のがよい」と書いてあるくらいですから、昔は今ほど「一度建てたら完成!終わり!」という感覚はなかったのだと思います。
そして時代が進み、現在では数寄屋造りは特に高価で材料も選りすぐった物を使い、お金持ちが別宅や趣味のスペースとして持つもの、といったイメージになってしまいました。

まあ、戦国時代も茶の湯は庶民には縁遠いものだったから。。。時代が戻ったとも言えるのかもしれません。

 

● 代表的建物
妙喜庵待庵
旧木下家住宅(兵庫県)
桂離宮
修学院離宮

 

 

さいごに

 

社会の制度が変わったり新しい文化が生まれると、それに応じて人々の暮らしも大きく変わります。
建築様式も同じ時代でも階級によって違ったり、いくつかの要素を併せ持った建物も、特に時代の変わり目にはたくさんあります。

 

建築様式の違いがわかると、その時代に生きた人たちの暮らしも伺い知ることができておもしろいですね。

次にお寺やお城を訪れる時は、また違った視点で楽しむことができそうです。