三島茶碗に暦張り。暦とお茶の深い関係。
言うまでもなく、茶の湯は自然や季節との調和をとても大切にしています。
何と言ってもお茶そのものが自然物だし、茶懐石にはその時期の旬のものを使います。和菓子の銘も季節を表すものが多く、夏は風炉を使い客から火を遠ざけます。
お点前や棚などの道具も、決まった時期にしかしない、または使わないものがあります。お花やお軸も然り。
季節の移り変わりとともにある茶の湯ですから、季節を知る指標である暦とも当然縁は深く、例えば雑節でもある「八十八夜(立春を1日めとして数えて88日目の日)」に摘んだお茶をいただくと長生きできるとも言われます。
暦張りの席「如庵」
茶室の腰張りに暦を貼り付けた「暦張りの席」如庵は、国宝にもなっています。
如庵は1618年に織田有楽斎によって京都の建仁寺境内に建てられ、流れ流れて現在は愛知県犬山市に移築され、現存しています。
腰張りの暦はお客が入ると衣服と擦れて劣化していくので、その度に新しい暦を上に貼り重ねてあるそうです。ということは、客座と手前座の暦は違う年のものなのかしら。
如庵の歴史が目に見える形で残されているようで、何だかすごいですね。
(日本旅行歴史協会よりお借りしました。)
三島暦と三島茶碗
三島暦(みしまごよみ)が生まれたのは奈良時代、日本で一番古い仮名暦(漢字だけではなく、かな文字も使って書かれた暦)と言われています。当時の暦は月の満ち欠けをもとに作られる太陰暦で、農業を行う人々にとって季節を知る大切な指標でした。
参考記事→旧暦と陰暦、太陰暦と太陽太陰暦の違いは?日本の暦の歴史をたどってみよう
三島暦は江戸時代初期には徳川幕府によって公式の暦とされ(当時は幕府の許可なく個人的に暦を作成することは禁止されていました)、主に関東・東海地方で使われていたそうです。かな文字の美しさや木版の品質の高さから、東海道を行き交う人々の旅のみやげとしても人気だったそうです。
(三島暦と三島茶碗。三島市観光Webより)
三島の器と言えば抹茶茶碗だけでなく、水指や蓋置などの茶道具、更にもっと範囲を広げるなら日常使いの食器や土鍋なんかもよくお店で見かけます。(茶の湯では三島手とも言います。)
それほど日本で知名度も高く人気もある三島手ですが、もともとは15~16世紀に朝鮮王朝下で作られていたもので、朝鮮半島から日本に渡来しました。
粉青沙器(ふんせいさき)とも呼ばれ、鉄分の多い陶土に白土で化粧掛けを施し(象嵌)、透明釉を掛けて焼いたものを指します。
どのように渡来したかというと、面白いエピソードを見つけました。
安土桃山時代に豊臣秀吉が朝鮮に攻め込んだ際に、朝鮮の陶工を日本に連れて帰り、その陶工の作る茶碗の美しい象嵌細工が三島暦に似ているということから、そうした模様を三島手と名付けたのだそうです。織田信長公も三島暦を使っていたとも言われているので、当然秀吉公も三島暦を知っていただろうし、千利休が茶会で使用したと言われる古三島茶碗も残っています。なるほどと思わせるエピソードですね。
その千利休所持の古三島茶碗が下の写真です。
(写真はお借りしました)
高めで存在感のあるの高台、口縁は大きく外に反った熊川(こもがい)形です。(熊川形は高麗茶碗である熊川茶碗からきた名称なので当たり前ですが。笑)
独特の文様と、化粧土と地の土のコントラストも美しい。
このお茶碗で秀吉公もお茶を飲んだのかも…と思うと何だか感動。。。
現代では下の彫三島茶碗のように景色がはっきりしているものの方が多いように感じますが、渡来当時はこんなに白っぽかったんですね。
たしかに上の古三島の方が、三島暦に似ている気がします。
(彫三島茶碗 銘「残雪」MOA美術館蔵)
こちらの「残雪」という銘の彫三島は、茶褐色の地の上に白釉のかかった様子を残雪に見立ててその銘を付けられたそうです。残雪の中からお花が顔を出して、冬の終わり、春の始まりを告げているよう。
こういうネーミングセンス、本当に素敵。日本人でよかったなあ。
さいごに
以前、山本兼一さんの著書「赤絵そうめん」の中の夕去りの茶事の記事を書いてから、三島の器がとても好きになりましたが、今回は古三島茶碗の何とも言えない美しさに魅せられてしまいました。昔の薄暗い茶室の中ではいっそうその白さが映えただろうなあ。。。
こうやってひとつひとつ道具に心を寄せていけるのもお茶の醍醐味のひとつ。
次回は、暦には必ずあるあのマークについて書きたいと思います。