三千家の茶室を比べてみました。不審庵、今日庵、官休庵の号の由来は?
現代の抹茶道の主流派と言える三千家。
表千家、裏千家、武者小路千家の3つの流派を指します。
いろんな雑誌やテレビなどで名茶室のひとつとして目にすることも多いですが、三千家の庵号にもなっている茶室を比べてみたら、それぞれに趣が異なり、文字通り三者三様。
とても興味深かったのでご紹介します。
表千家「不審庵」
表千家の家元には「不審庵」という号を持つ茶室があります。
不審庵は、もともとは大徳寺門前の利休屋敷に建てられた四畳半の茶室の号でしたが、利休の切腹や千家の再興など、時代の流れとともにその形や場所を変え、現在に至ります。
三代宗旦(1578–1658)は自身のつくった一畳台目の茶室に不審庵の号をつけています。その後隠居する時に不審庵を四代の江岑宗左(1613−1672)に譲りますが、江岑は宗旦にも相談し、不審庵を三畳台目に建て直します。
現在の不審庵は大正2年(1913年)に再建されたもので、内外ともに江岑の茶室の形をほとんど変えることなく伝えられています。
不審庵の号は、大徳寺の禅僧でもある古渓宗陳が利休から庵号を求められて
「不審花開今日春(いぶかし はなひらく こんにちのはる)」
という禅語からつけられたと言われます。
「不思議なことだ、春のこの日に花が咲くのは」という意味のこの語は、花が教えられていないのに毎年春に咲くように、自然とは人智を越えたものでそこにははかりごとが一切ない、ということの不思議さや自然に対する畏敬の念を表した禅語です。
不審庵は深三畳台目の茶室です。
戻り茶道口という特殊な作りながら、点前畳の脇に敷いた板のおかげで出入りがしやすくなっています。
間取りはこんな感じ。
3つの茶室の中で一番広く、天井も客座の奥半分は蒲天井、後は化粧屋根裏を残して高低差をつけています。
写真では見えませんが、点前座の上も化粧屋根裏になっています。
明かり取りの窓も多く、屋根裏には突上窓も切ってあります。
土壁と窓の配置に腰張りの紺色が絶妙、ずっと見ていても見飽きません。
躙口の右上は下地窓になっています。
この茶室のもうひとつ面白いところは、風炉の時期には炉を塞いだ畳が点前畳となるところです。
普通は台目畳の左端に風炉を据えますが、不審庵は風炉先に茶道口がついているので不可能。炉の位置に風炉を据えると風炉の後ろ側を客側に向けることになり、これもできないので特殊な例としてこの形になるそうです。
風炉と炉で点前座が変わる茶室は他にはほとんど見られません。
裏千家「今日庵」
「今日庵」は、宗旦が不審菴を三男の江岑宗左に譲り、隠居所として建てた茶室です。
宗旦時代の今日庵は天明の大火(1788)で焼失、その直後に建てられたものが現在まで受け継がれています。
庵号は諸説あり、不審庵と同様に「不審花開今日春」から頂いたという説もありますが、他にとても有名な逸話があります。
新しい茶室の席開きの日に禅の師である大徳寺の清巌和尚を招いたところ、刻限になっても現れない。遅れてきた清巌和尚は誰もいない茶室の腰張りに
「懈怠比丘不期明日 (けたいのびく みょうにちをきせず)」
わたしは怠け者の僧なので明日のことは約束できません、と書き付けて帰ってしまいます。
それを見た宗旦が「今日庵」と命名したとも、また清巌和尚に
「邂逅比丘不期明日 (かいこうのびく みょうにちをきせず)」
清巌和尚に今お会いできたのだから明日に期待するものではありません、と返したとも言われ、実際のところはわかりませんが、明日ではなく今日このとき、ということで「今日庵」の号がついたと言われています。
この二幅の墨蹟は、現在は今日庵に所蔵されているそうです。
今日庵の外観は侘びた風情。
向板(むこういた)に辛夷(こぶし)丸太の中柱が立てられ、袖壁が付けられています。
柱に花入が飾られているのは、床の間がないから。
なんと今日庵は下座床の壁床になっています。
写真では分かりづらいですが、天井は一面の化粧屋根裏で、壁床に向かって高くなっています。
そのため壁床の面積が広くなり、空間の広がりを感じさせてくれます。
ちなみにこの壁床にかかっているお軸は件の「懈怠比丘不期明日」です。
今日庵は、侘数寄の究極の形と言える草庵茶室かもしれません。
武者小路千家「官休庵」
「官休庵」の名の意味は、「官(役人)を休む」と書きます。
武者小路千家の流祖、四代一翁宗守(いちおうそうしゅ・1906-1676)は宗旦の先妻の子として産まれますが、父の意に添い千家から離れ、後に千家十職となる塗師、吉文字屋与三右衛門の家に養子に入ります。彼はそこで吉岡甚右衛門(よしおかじんうえもん)と名乗り、塗師として修行を積んでいました。その技は素晴らしいものだったそうですが、千家の兄弟達の勧めもあり、還暦のころにその技と家督を初代中村宗哲に譲り、千家に復します。
そして一翁は、父宗旦の口添えで讃岐国高松藩の松平家の茶頭として出仕するようになります。10年余り茶頭としての勤めを果たし、武者小路家に戻って開いた茶室が「官休庵」だったといわれています。一翁が高松の松平侯の茶頭としての仕事を引退、つまり官を辞して休む庵といった意味がもっとも有力と考えられています。
この官休庵を営んだところから正式に武者小路千家が始まりました。
まずは官休庵のシンボルともいえる編笠門。
門をくぐると官休庵が。何とも風情のある佇まいです。
中は一畳台目の茶室です。
道具畳と客畳との間に幅約15cmの半板が敷かれ、主客に余裕を持たせるよう工夫されています。
天井は蒲天井で、板張りに比べて軽やかで明るい印象になっています。
茶道口から入ると半畳分の板畳が踏み込みとなり、炉は向切り、床柱は杉、床框には桧(ひのき)が使われています。
写真では見づらいですが、床の間の横に茶道口があり、茶道口の上が化粧屋根裏になっています。
さいごに
それぞれ違った趣きの三茶室。
当時の様子を伝えるエピソードもけっこう残っていて、それを知るとまた違った目で見ることができます。
例えば今日庵と官休庵は、かつて利休が聚楽第の城下屋敷に建てた一畳半(一畳台目)を思って作られたものに相違ありません。一畳半は秀吉の意に沿わなかったため、結局二畳に改められましたが、宗旦が作った一畳台目の不審庵は、まさに利休の一畳半の茶室の材料を使って建てられたのだそうです。
武者小路千家の一翁宗守の号は似休斎(じきゅうさい)といい、その名からも利休を慕い利休の理想の茶を追求していたことが伺えます。茶の湯から離れていた時間が長かったぶん、思い入れは深かったのかもしれません。
また塗師である中村宗哲との繋がりも、いかにも縁というものを感じさせます。
利休の孫 宗旦の3人の息子を流祖として始まった三千家ですが、その根っこは同じなんだということがわかり、その歴史が今にも続いているんだと思うと、なんだかしみじみとした気持ちになってしまいます。
いつか全ての茶室を直に拝見してみたいです。