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長谷川等伯。桃山を代表する絵師の生涯を描く–安部龍太郎著「等伯」

 

千利休(1522ー1591)と言えば、この肖像画が有名です。

これを描いた人物をご存知ですか?

 

(「利休居士像」長谷川等伯筆 春屋宗園讃)

 

作者は、長谷川等伯。

狩野派と並び、桃山時代を代表する長谷川派の筆頭絵師です。

 

狩野派の4代目・狩野永徳と同じ時代を生き、波乱に満ちた彼の生涯を書いた、安部龍太郎さんの「等伯」。

 

歴史小説の中でも珍しい、絵師の生涯を書いた上下巻からなる長編大作です。

2012年に、第148回直木賞を受賞しています。

絵師であるが故の苦しみや武家出身の葛藤が生々しく描かれ、読んだ後には改めて彼の絵が見たくなり、見れば単なる絵画ではなく、まるで生き物のように迫ってくるような不思議な錯覚を覚えます。

 

地方出身の一絵師が同時代を風靡する狩野派とその座を争ったとなれば、当時も世間の注目の的だったに違いありません。でも「等伯」を読むと、彼もまたこの時代を生きた1人の人間だったということに気づかされ、人間臭い世俗的な部分や偏った性格も描かれていて、大業を成す人が聖人というわけではないのだな、といい意味で思い知らされます。

 

最大にして最強のライバルと言われた狩野永徳の生涯を書いた「花鳥の夢」も一読の価値ありです。

違う人物を違う作家が書いたにも関わらず、あまりにも似た苦悩を持ち、絵師とはこういうものかと思わせる。境遇こそ違うけれど、彼らの絵に向かう姿勢や気迫には心を打たれます。

 

 

長谷川等伯(1539ー1610・享年72)


長谷川等伯の幼名は又四郎、のちに帯刀。絵師(絵仏師)としての初期の号は信春。
等伯と名乗るのは50歳を過ぎてから(1589年ごろ〜)です。

 

出身は能登国(現在の能登半島)の七尾で、戦国大名の畠山氏の家臣である奥村家に生まれますが、幼い頃に、日蓮(法華)宗徒で染物屋を営む長谷川家へ養子に出されます。

養父である長谷川宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受け(宗清や無分は雪舟の弟子等春に師事していたと言われています。もしかしたら信春も絵を教わっていたかもしれません。)、主に法華関係の仏画や肖像画などを描いていました。

 

養父・長谷川宗清との合作と言われる「宝塔絵曼荼羅図」は2019年に修復され、氷見市にある蓮乗寺に保管されています。

(「宝塔絵曼荼羅図」長谷川宗清(道浄) こみみ情報局より)

 

33歳の頃、養父母が他界したのち妻子と共に上京した信春。

小説ではここで織田信長による比叡山の焼き討ちに巻き込まれ、信春のこの後の人生を大きく狂わせることになります。

上京した信春一家は、菩提寺である七尾の本延寺が京都の本法寺の末寺だったため本法寺に身を寄せます。

狩野派の門に入り永徳の父である松信のもとで修行するもののすぐに辞め、商業の中心であった堺などを行き来して千利休や豊臣秀吉といった時代の要人と交流を深めていきました(本法寺の日通上人も堺出身でした)。

 

上京して間もなくの頃に本法寺の日堯上人の肖像画を1571年に手がけてからは、千利休が寄進したという大徳寺の山門(金毛閣)の天井画を手がけた1589年まで、信春の作品は残っておらず、歴史の表舞台には出てきません。

 

長谷川等伯「日堯上人像」(1571ー1572)

 

この空白の期間は狩野永徳一門が画壇を制し、宮中の仕事を一手に引き受けており安土城や大阪城、聚楽第の障壁画なども描いています。
1582年には織田信長が本能寺の変で非業の死を遂げ、その後豊臣秀吉が天下人となるなど、世の情勢は目まぐるしく変化していきます。

 

1590年には、信春が京都御所(仙洞御所)の対屋の障壁画の注文を一度は受けたものの、狩野派の圧力がかかり、仕事は取り消されてしまいます。

その1ヶ月後、狩野永徳が急逝。

翌年(1591年)、秀吉の息子 鶴松が逝去したため、秀吉は菩提寺として祥雲寺(現 智積院)を建立、等伯は襖絵制作の依頼を受けます。

長谷川等伯「楓図壁貼付」国宝

 

長谷川久蔵「桜図壁貼付」国宝

 

 

これにより、長谷川派は名実ともに狩野派と肩を並べることになります。

 

しかし同年、千利休が切腹。

その2年後(1593年)には等伯自身も息子 久蔵を26歳の若さで亡くします。この時等伯は55歳。

1598年には秀吉も他界し、等伯は後ろ盾を失います。

 

 

雪舟(せっしゅう)と牧谿(もっけい)

 

小説「等伯」にはその記述の詳細は省かれていますが、等伯は後年、「五代雪舟」と自ら名乗っています。

これは幼少期に養父、養祖父が雪舟の弟子等春に絵を教わっていたことから、雪舟から数えて5代目だと言うことを表しています。

 

雪舟-等春-法淳(無分・養祖父)-道浄(養父)-等伯

 

これにより、日本の水墨画における長谷川派の画風の伝統性や家統の正当性を主張したと言われ、画風というよりは雪舟の知名度に頼って五代を名乗っていたという見方が現在は強いようです。

 

しかし結果的にこれが功を成し、法華宗だけではなく、様々な寺院からも仕事が来るようになり、その業績を認められて等伯は1604年までに法橋の位を敍し、1605年には法眼の位も敍しています。

 

後年の等伯が最も大きく影響を受けたのは、南宋の画僧、牧谿でした。

 

牧谿「観音猿鶴図」

 

長谷川等伯「竹鶴図屏風」右隻(上)・左隻(下)

 

牧谿の直接の影響を受けて描いた作品と言えば、「竹鶴図屏風」。
等伯50代前半に描かれたものです。

立ち鶴の姿勢こそ同じですが、等伯の鶴は番(つがい)であることが大きな見どころです。

 

長谷川等伯「竹林猿猴図」右隻(上)・左隻(下)

 

こちらは猿猴図。牧谿の猿は母子のみでしたが、等伯は父猿を描いて母猿は子猿を肩車しています。明るく楽しげな家族の雰囲気を作り出しています。


牧谿が描いた猿は、等伯を始め多くの絵師に影響を与えました。

 

でも等伯が牧谿から真に学んだのは、動物の描き方ではなく空間の描き方だったと言われます。

等伯の描く竹林は湿った空気と薄く差し込む光までを見る者に伝え、「竹鶴図屏風」や「竹林猿猴図」は、水墨画の至宝と名高い「松林図屏風」と同時期に描かれたものであることが伺えます。

 

「松林図屏風」は草稿(下絵)だという説もある謎の多い作品ですが、小説の中では等伯の故郷・七尾の原風景として描かれています。

 

「竹林図屏風」右隻

 

 「竹林図屏風」左隻

 

 

息子の久蔵に先立たれてしまってからはその作品の大半が白黒の水墨画だったという等伯。

水墨画の持つ、悲しくもほの明るい印象が等伯の心に響いたのかもしれません。

 

 

その後も等伯は絵を描き続け、久蔵の七回忌にあたる慶長9年(1599年)には本法寺に巨大な「仏涅槃図」を寄進しています。
裏面には本法寺の歴代や法華宗の祖師とともに、等伯の養父母や妻、息子など一同の名も連ねられていて、等伯の親族への供養の意味が込められていたことが伺えます。

 

長谷川等伯「仏涅槃図」(1599年)

 

小説では「1番左の沙羅双樹の根元に座り込み、緑色の僧衣を着て頬杖をついている男」を自画像として描き込んだとあります。

 

 

戦国の世に、武家に生まれながらも絵師としての道を歩んだ長谷川等伯。

その生涯は決して順風満帆ではなく、名声と引き換えに失ったものも計り知れませんが、それ故に没後400年が経った今でも彼の作品は光を失わずに人々に愛されています。

 

 

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