「茶禅一味」から学ぶ、本当の茶人とは、茶禅の真髄とは。
「茶禅一味」
という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
茶道をやっている人間なら一度は耳にしたことがあろう言葉です。
茶味は禅味を兼ねる。(大林宗套)
茶意は即ち禅意なり。(寂庵宗沢「禅茶録」)
茶の湯は第一仏法をもって修行得道することなり。(千利休)
茶湯は禅宋なり。(山上宗二)
古くからたくさんの人物が茶禅一味の精神を説いてきました。
そもそもどうして茶と禅が繋がるのか?
それは茶の湯が京都紫野の大徳寺と密接に結びついていたこと、大徳寺が禅宗である臨済宗であったからという見方が一般的です。
「詫び茶の祖」と言われる珠光は、大徳寺を復興した一休宗純(一休さん)に習い禅を学んだと言われ、その後多くの茶人が大徳寺の門をくぐることになります。
大阪にある南宗寺(なんしゅうじ)は臨済宗大徳寺派の寺院で、武野紹鴎や千利休が参禅したとも言われています。
余談ですが、官休庵の若宗匠も大徳寺で得度されていますね。
「煎茶の祖」売茶翁は儲けにかかわらず、人々にお茶を振る舞いながら禅を説いたと言われています。
(大徳寺塔頭の聚光院の門前。独楽紋の入った幕がかかっています)
茶の湯というのは難しいもので、学ぶことが深く多く、単にお点前ができるだけでは茶人というにはほど遠い。
書に花に掛け軸、しつらえから茶懐石、茶室やその外側にある露地まで空間全てを把握していなければならず、幅開いジャンルについての知識が必要とされます。
それゆえに知らない人にとっては足を踏み入れにくい世界でもあります。
美味しいお茶とお菓子を楽しみたいだけなのに何か堅苦しくて、、、という人が多いのもわかる気がします。
茶人とは?という定義づけの難しいところに、昔と現代では「茶人」や「数寄者」という言葉の意味が多少違ってきているという理由が挙げられると思います。
現代で茶人といえば茶の湯に関わる全ての(とまでは言わなくともそれなりの)知識を持っている人、ひととおりの修行を終えた人のことを指し、数寄者は本業とは別に茶の湯を愛し名物道具を所有している人を指す、、、のような。
本当の茶人とは、茶の湯とは、何なのでしょうか。
「茶の本(岡倉天心)」には、お茶の本質、真髄ともいえる言葉が残されています。
茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である。そこから人は、純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。茶道の本質は、不完全ということの崇拝――物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試みが茶道なのである。
(大久保喬樹 訳)
ほんとうの茶人チャールズ・ラムは、
「ひそかに善を行なって偶然にこれが現われることが何よりの愉快である。」
というところに茶道の真髄を伝えている。
というわけは、茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑うけだかい奥義である。従ってヒューマーそのものであり、悟りの微笑である。
すべて真に茶を解する人はこの意味において茶人と言ってもよかろう。
(村岡博 訳)
もともと茶事は開かれた場でするものではなく、自分の大事な茶道具を預けてもいいと思えるような間柄でするものでした。亭主だけでなく客側にもそれなりの教養が求められ、お互いに相手の意図を組んで作りあげるものだったのです。(豊臣秀吉の開いた北野の大茶会は、当時としてはものすごく異例な、センセーショナルなことだったと思います。)
気心知れた間柄の高度な仕掛けと謎解き。そんな昔の価値観をそのまま持ち込めば、ますます茶の湯の間口は狭くなっていってしまうでしょうし、だからといって誰でも参加できるお茶会では、誰も自分の大切な道具を披露しようとは思わないでしょう。
何をもって茶人というか、というのは本当に難しい。
さて、話は茶禅一味に戻って、このふたつは本当に同じものなのか?
茶禅一味とは言っても、お茶はお茶、禅は禅。
両者はあくまでも別のものだという見方もあります。
では何が一味なのか?
お茶と禅というのは、その精神的な面が全てのことに、ひいては生きることにつながってゆく、ということに於いて同じだとよく言われます。
お茶を習っていると「すべての所作に意味がある」という言葉はよく耳にするし、禅ならば「すべてのことに意味がある」となるでしょう。
それと実はもうひとつ、わたしは実はこっちが真髄なんじゃないかと思うのですが、「三昧」ということに於いて茶禅が一体であるという見方もあるのです。
毎年8月下旬に、京都にある妙心寺で禅についての歴史や思想、作法などを誰でも学ぶことができる花園会夏季講座が行われます。
その年によって講義内容は変わるのですが、何年か前に参加した時にとても面白い話を伺いました。
「本当の信仰というのは、
自分の体験から生まれた信念に沿って生きること。
真の自己になるところなのです。
(権威にすがったりするのはご利益信仰)」
前半は何となくわかりますが、「真の自己になる」って、一体どういうこと?
例えば無心に断崖を登るときは、雑念はなく本当に自分が集中している状態ですよね。
「落ちたらどうしよう」とか考えてる場合じゃない、考えてたら終わりだ、やるしかないっていう場面。
こういう時にする経験を純粋経験というそうです。
哲学者の西田幾多郎氏は、
「純粋経験とは、主客未分(しゅきゃくみぶん)の状態における直接的な経験」
という言い方をしていますが、
主客未分というのは、
主観と客観、この2つが分かれる前の状態ということ。
言い換えれば主体と客体、つまり自他の区別がない状態。
文章にすると何だかややこしいんですが、
自分がこれをやっているとか、そういう感覚じゃなくて
ただただ無心に何かに没頭して、それこそ時間のたつのも忘れてごはんも忘れて集中して何かをやっているとき、
(例えば野球少年が練習に打ち込んでいて、はっと我に帰ると辺りは夕焼けでカラスが鳴いていた。。。とか)
そういうのを主客未分の経験=純粋経験、
というんだそうです。
そういう集中状態のことを、サンスクリット語で「サマーディ(samādhi)」、音訳すると「三昧(さんまい)」と言います。
講義してくださった先生は、
三昧のことを「なりきること」と表現していました。
三昧ということが、真の自己になるということ。
集中して、なりきってする経験。
芸事をやるときも、すべてそういう純粋経験でやらなくては自分の糧にはならない、と。
茶道で言うなら、お点前をするときに茶杓を持つ時は茶杓を持つことに集中し、棗の蓋を開けるときは開けることに集中する。
「この後どうするんだっけ。。」となってしまってはサマーディの状態にはならないから、ちゃんと今この瞬間の所作に集中できるようにお点前の流れを覚える。
ということなんだと思います。
「お点前の手順を覚えること」はゴールではなく、純粋体験をするための土台づくり、といってもいいのではないかしら。
ちなみに、一味って何味?
というのは、お茶だし禅だし、苦味…と言いたいところですが、万物は海から生まれたということで、塩味(鹹味)という説もあるそうですよ。