風物詩

旧暦6月1日は「氷の節句」。その日に金沢で食べられるお菓子とは?

 

※アイキャッチ画像は、かなざわ百万石ねっとよりお借りしました。

 

 

去年の6月に、「夏越の祓」と「水無月」についての記事を書きました。

1年の前半、半年分の穢れや厄を落として後半の健康を祈願する夏越の祓と、6月末に食べる、水無月という和菓子。

どちらも初夏の風物詩です。

 

参考記事→1年の半分の穢れを落とす「夏越の祓(なごしのはらい)」。具体的には何をするの?その日のための和菓子とは?

 

 

今年も茅の輪くぐりをしましたが、コロナの影響で、茅の輪を八の字に回りながら潜る、というのは禁止されていました。人との間隔を十分にあけて、直進のみ。

 

それでも、まあ無事に茅の輪も潜ったし、水無月も食べたし後半の半年も元気にすごそう!と思って全部やり切った気でいたら、7月1日にFacebookで友人が、「氷室まんじゅう、今日1日で何個食べたかわからない!」という投稿をアップしていました。コメント欄にも、「そんな時期ですねえ」とか、「私もたくさん食べました!」など。。。

 

…「氷室まんじゅう」ってなに!?そんなに有名なの?全然知らなかった。。。
「氷室」だから氷の節句に関係あるのかな?

 

ということで、今回はちょっと過ぎてしまったのですが、「氷の節句」と「氷室まんじゅう」のお話です。

 

 

「氷の節句」とは

 

昔は、夏の氷と言えばとても貴重で、一部の権力者や特権階級しか手に入れることのできないものでした。

 

旧暦6月1日は「氷の節句」または「氷の朔日」と言われ、6月朔日(さくじつ・旧暦のついたち)に氷室の氷を口にすると夏痩せしないで元気に夏を越せると伝えられていました。平安時代、御所では毎年この日に氷室の氷を取り寄せ、諸臣にも分け与えて、皆で氷を口にして暑気を払いました。室町時代には「氷の節句」は幕府や宮中で年中行事とされていました。


冷凍庫もないのにどうやって夏に氷を手に入れていたのかというと、寒い時期にできた天然の氷を夏まで溶けないように保管していたのです。山中の涼しい場所、洞窟や穴に小屋を建ててその小屋の中に雪氷を貯蔵するのですが、その氷の貯蔵庫を「氷室(ひむろ)」といいます。

 

本物の氷を手に入れることのできなかった庶民はというと、氷をかたどったお菓子を作って食べていましたが、それが「水無月」でしたね。

 

 

将軍家はどこから「氷室の氷」を手に入れていたか?

 

江戸時代、この「氷の節句」のために徳川幕府に氷室の氷を献上していたのが、加賀藩です。

 

毎年6月1日(現在の7月1日)に氷室を開き、「白山氷」と名付けた雪氷を将軍家に献上する慣わしだった加賀藩。遠く江戸にある徳川幕府まで氷を届けるので、長い道中、無事に氷が届くようにと、庶民は麦まんじゅうを神仏にお供えして祈っていたそうです。どれくらい遠かったかというと、江戸まで約120里、480kmほどの距離を4日間かけて運んだそうです!(白山氷は十四代将軍徳川家茂公の時代まで献上されたようですが、途中からは6月1日ではなく「冬の間に」江戸にある本郷上屋敷の氷室に運ぶようになったそうです。)
麦まんじゅうは、奉納した後に、大切なものの無事と皆の無病息災を祈って皆で食べる風習があり、ここから生まれたのが現代も食べられている「氷室まんじゅう」です。

 

「氷室まんじゅう」は江戸前期〜中期、加賀藩の五代藩主である前田綱紀公の時代に、金沢の生菓子屋さんの道願屋彦兵衛によって創案されたといわれています。
当時の麦まんじゅうは氷室の氷を使って作ったものだったとか、お供えしていたまんじゅうには中にあんは入っていなかったので、道願屋彦兵衛がまんじゅうにあんを入れて「氷室まんじゅう」を考案した、などいろんな話があります。
現在は氷室まんじゅうはたくさんの和菓子屋さんで販売され、ほとんどが酒まんじゅうで、色も白(しろ)、紅(あか)、緑(あお、と読みます)の3色あります。

 

金沢の和菓子といえば茶の湯の世界でも名高い森八さんでも、もちろん販売しています。

森八オンラインショップより)

 

金沢には数件の菓子処の氷室まんじゅうを食べ比べできるセットなどもあるし、先述した友人は金沢に住んでいるのですが、7月1日は行く先々で氷室まんじゅうをもらうので、1日で何個食べたかわからない!と言っていました。振る舞ったり、振る舞われたり、お互いの健康を祝い、祈り合って食べる氷室まんじゅう。地域に根付いた素敵な習わしですね。
ちなみに氷室まんじゅうは、氷室開きだけではなく、嫁入りの時にも嫁ぎ先に持っていく風習があるらしいですよ。

 

 

再建された氷室小屋

 

江戸時代、徳川家に雪氷を献上していた加賀藩だけでなく、氷室は各地にありました。
江戸の市中でも氷室が作られるようになると、夏場には「水売り」が氷の入った冷たい水を売り歩いていたそうです。

 

金沢では明治ごろまで、天然の氷を熊笹の葉で三角に包んだ「白山氷」が暑い夏の日によく売れたそうです。(実際には昭和になり、機械での製氷が主流になるとともに氷室は激減し、昭和18年ごろにはほとんどその姿は見られなくなってしまいました。)

この三角の「白山氷」は、医王山あたりで貯蔵していたものを切り出してきた雪氷である、という記述が残されているのですが、医王山麓にある湯涌温泉では、観光協会が中心となって昭和62年に氷室が復元されました。現在でも湯涌温泉の玉泉湖岸にある氷室小屋で、毎年1月の最終日曜日には氷室に雪を詰める「氷室の仕込み」、6月30日には「氷室開き」の行事が行われています。

 

湯涌温泉観光協会より)

 

 

さいごに

 

軽い気持ちで調べ始めたら、とても奥の深かった氷の節句と氷室の歴史。
兼六園の南端、山崎山の麓にも氷室の跡があり、現在は池になっていますが、こちらは氷室として使われていたのか、そうだとしても藩政時代からあったのかどうか、ということについては諸説あり、否定的な意見もあるそうです。

(写真はお借りしました)

でも、もしかしたらここから切り出した氷を、金沢城に暮らす人々が口にして健康を祈っていたのかも(城内にも氷室はあったので、藩主用ではなかったかもだけど…!)、と考えるだけで何だかわくわくしてきます。

 

 

氷室まんじゅう。

今年は逃しましたが、来年こそはいただきたいと思います。(できれば現地で!)