江戸時代、大小といえば刀だけじゃなかった。浮世絵に隠された洒落の世界!
浮世絵といえば、江戸時代初期に産まれた絵画で、日本の文化の筆頭としても挙げられ、世界にも多くのファンをもちます。
浮世絵は庶民の暮らしや当時の景色を描いたものが多く、美人画や役者絵など、当時の風俗も反映しています。その歴史は肉筆画から始まりますが、大衆に向けたもので量産できるものだったため庶民に広まったという経緯があるので、木版画が主な作品形態といっていいと思います。
さて、「大小」と言えば武士の魂、刀を指します。
江戸時代になると武家諸法度が制定され、武士は大刀と小刀を左腰に指して歩くようになります。(それ以前は携帯する武器に決まりや縛りはなかったようです。)
本差と呼ばれる大刀と、脇差といわれる小刀、合わせて大小。
下の浮世絵、真ん中の赤い鎧の鼠や手前の猫の腰に刀が2本指してあるのが分かりますか?
(かわいい)
日本刀、模擬刀などを持ったことがある方はわかると思いますが、すごく重いんですよね。これにプラス脇差を左腰に指している武士は身体の左右の重量差が激しく、長年の間に左側だけ筋肉がついて、左右の足袋のサイズが変わってしまうこともあったそうです。
余談ですが、新撰組組長の近藤勇は、大刀が使えなくなった場合に脇差でも十分に戦えるようにするために、脇差も長い(つまり重い)ものを好んでいたそうです。どんだけの怪力だったんでしょうか。。
さて大小といえば、江戸時代は刀のことだけではなく、暦を指す言葉でもありました。
江戸時代は太陰暦。旧暦とも呼ばれる、月の周期をベースに作られた暦が使われていました。
月の朔望、つまり満ち欠けの一周をひと月と数えるのですが、その周期はだいたい29.5日。1年が12ヶ月なので、29日の月と30日の月を6ヶ月ずつ組み合わせて1年の暦を作っていました。(これだと暦と季節がだんだんずれてくるので、3年に1度くらいの割合で閏月という月を入れて、1年を13ヶ月にして調整していました)
参考記事→旧暦と陰暦、太陰暦と太陽太陰暦の違いは?日本の暦の歴史をたどってみよう
そしてこのひと月が30日の月を大の月、29日の月を小の月と呼び、月だけを記した暦を大小(大小暦)と呼んでいました。
暦はだいたい前の年の11月ごろに次の年のものが発表されるのですが、ややこしいことに大と小の月の組み合わせが毎年変わるのです。しかも何年かに一度は閏月も入ってくるので、簡単には覚えられません。そこで大の月と小の月の配置を記した「大小暦」が産まれました。
細かくいうと、日本はずっと太陰暦を使ってきたので、大小暦自体は江戸時代よりもずっと昔からありました。江戸時代初期には、紙に文字で記しておいて家の柱に貼りつけるとか、店では支払いの期限などを間違えないように大と小の札を作り、店の軒先にかけてその月に合わせて掛け替えたりしていたそうです。
やがて大小暦は庶民から富裕層まで普及し、個人で制作したものを交換するということが実益を兼ねた知的な遊びとして大流行します。(暦は幕府の管理下だったので無許可で制作することは禁止でしたが、大小暦は大丈夫だったんですね。)
絵や文章を織り交ぜた様々な大小暦が作られ、年の初めには「大小の会」なるものが開かれて、そこでお互いの作った大小を交換したり、贈り物として配られたりしました。これが年賀状の原点とも考えられています。
絵の中に大小の月を描き表した絵暦(えごよみ)は、一見すると普通の絵に見えるけれど、実は実用的な暦でもあり、絵の中にも世俗が反映されていたり、遊びごころがあるものがたくさんあります。初期はシンプルなものが多かったですが、だんだんと洒落のきいたものや創意工夫の凝らされたものが出てくるようになり、明和二年(1765年)に画期的な大小が誕生します。
それがこちら!
「?普通の浮世絵じゃん」
と思った方もいるかもしれません。
確かにそうなんですが、この浮世絵の凄いところは、多色刷りであること。
それまでの浮世絵は単色刷りの後に手で彩色したものや、数色を使った紅摺絵(べにずりえ)が主流でした。
多色刷りの浮世絵は錦織物のように、あまりに美しいので錦絵(吾妻錦絵)と呼ばれました。
浮世絵では絵師ばかりが注目されるけれど、錦絵は版元(はんもと、版画に使う版木を制作)、絵師(えし、絵を描く)、彫師(ほりし、絵を版木に彫り起こす)、摺師(すりし、紙に刷る)の分業で制作されていたので、どの工程が欠けても作品として出すことはできませんでした。
そしてこの「夕立」を皮切りに、錦絵ブームに火がついたと言っても過言ではありません。
現代では浮世絵といえばこの錦絵を思い浮かべる人がほとんどだと思います。
喜多川歌麿や東洲斎写楽、歌川国貞、国芳、広重、葛飾北斎など、現在も名を残す浮世絵師の作品も錦絵です。
この錦絵が生み出されたのは、塗料や紙の品質向上などいろいろなタイミングが重なったこともありますが、いちばんは江戸の趣味人がパトロンとなってくれたため、職人が心置きなく多色刷りの技法を追求できたからではないでしょうか。そして現代に多くの作品が残っているのも、パトロンが所持し、保管してくれていたからというのは大きなポイントです。
「夕立」の話に戻りますが、これは絵暦として作られたものなので、干された浴衣の中にその年の元号と大の月を示す文字が隠されています。
着物の左袖に、大という文字と、袖から胴にかけて二、三、五、六、八、十の数字が見えます。
裾部分に、メ・イ・ワ・二の文字。
明和二年の大の月は二、三、五、六、八、十月である、という意味です。
他にも絵暦はたくさん残されていて、中にはちょっと見ただけでは分からないようなものもあります。
いくつかご紹介します。(写真は江戸の絵暦よりお借りしました)
例えば、こちらは享保十六年(1731年)の絵暦です。
栄礎(えいそ)という江戸時代の浮世絵師の作品。
女性と女の子の浴衣に文字が隠されています。
赤い帯で大(女性)と小(女の子)が描かれています。
大の月(女性)…上から六、二、八、四、十一、九月
小の月(女の子)…上から正(一月)、五、十、三、七、十二月
月の漢字の中に書かれている文字は、その月の朔日(ついたち)の干支だと思われます。
それから下の絵は、安政七年(1860年)の絵暦です。
歌川国芳の門人、芳綱の絵暦です。
この年の干支は、庚申(かのえ・さる)。わかりやすいですよね。
猿が持っている札は「小の月」。この年の小の月の札が鳥居に貼られています。
あと有名なのは、河鍋暁斎が描いた明治維新の年の絵暦です。
幕末に流行した「ええじゃないか」を踊る男女や動物で月を表しています。
右下が1月でそこから反時計回りに月が進み、女性が小の月、男性が大の月を表しています。4月は閏月があったので、子供が一緒に描かれているのもうまいですよね。人物の足元にいる動物は、その月の朔日(ついたち)の干支の動物です。
明治になって新暦に変わってから絵暦は使われなくなり姿を消しましたが、絵暦から産まれた錦絵の技法は現代にも受け継がれ、何より江戸っ子の洒落の文化はこの大小暦が流行ったことが大きな要因のひとつでもあるのではないかな、と思います。
国立国会図書館のサイトにも大小暦クイズが載っていて、とても面白いので興味がある方はぜひ覗いてみてください。