日本絵画,  浮世絵,  美術館めぐり

鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開 に行ってきました。

 

先日、東京国立近代美術館で公開されていた鏑木清方の《築地明石町》を見に行ってきました。

 

 

 

終了間際で駆け込んだのですが、平日の昼間だったので人の入りはまずまず。
ゆっくりと見ることができました。

なんというか、江戸時代の浮世絵とは違う、現代とも違う、時代の変化の狭間であったこの時期にしかないものの集大成、という感じでした。
それは風俗や時代背景もそうですし、技術・技法という面でも、この時期でしか成し得なかったのだろうなあ、とにかく素晴らしい作品ばかりでした。

 

鏑木清方(かぶらき きよかた、1878ー1972)

鏑木清方は、美人画で上村松園と並び称された日本画家です。

父親がやまと新聞社の創立者だという影響もあり、もとは小説家を目指していたそうですが、父の勧めもあり画家を目指すようになります。
「最後の浮世絵師」と言われた月岡芳年の弟子である水野年方(1866-1908)に入門し、やまと新聞の挿絵などを担当するようになります。

東京神田に生まれ、関東大震災や第二次大戦の空襲も経験した清方は、震災で失われてしまった明治の情景や東京の下町の風俗を美人画とともに終生描き続けました。
もっとも本人は美人画だけでなく作品の中に当時の風俗や文化も丸ごと残したいという思いから、美人画家と呼ばれることを嫌っていたそうです。

 

幻の3部作

清方は「浮世絵をもとにした近世風俗」を主なテーマとして絵を描いていましたが、関東大震災後には「失われる明治の情景」を制作テーマに加えます。《築地明石町》は、清方がさらに画業の後半に行き着いた「明治20年代から30年代の人々の生活」というテーマのスタートラインに位置する作品と言われています。

 

(写真:美術展ナビより)

 

この3幅の絵は表装もサイズも同じ、3部作として有名な清方の代表作。
左から《浜町河岸》《築地明石町》《新富町》、いずれも東京に今も残る地名です。

清方の没後、1975年にサントリー美術館で開かれた展覧会を最後に消息が分からなくなっていた《築地明石町》。
2019年に入ってからなんと44年ぶりに発見され、同じく消息不明だった《浜町河岸》《新富町》とともに今回約半世紀ぶりに披露されることとなりました。

会場には《築地明石町》のモデルの江木ませ子さんの写真や、描かれた小紋や羽織を再現した衣装なども展示されました。
(羽織はともかく、小紋の柄が思ったより大柄で絵の印象よりも目立つものでしたが。。)

 

鏑木清方《築地明石町》(1927)東京国立近代美術館蔵

 

旧外交人居留地である明石町に佇む女性。
その右側には洋館の垣根と思われる水色の柵が見え、朝顔が花を咲かせています。朝顔の葉は黄色くなり花も落ちていて、今はない明治の景色を名残り惜しんでいるかのようです。
左奥には佃島の入り江に停泊する帆船がうっすらと見え、朝霧に霞んでいます。
女性の髪はイギリス巻(夜会巻)で、明治期をよく表す髪形だと清方本人の言葉も残っています。ちらりと見える羽織の裏地の赤が素敵。袖から覗く指にはめられた大ぶりの指輪も目を引きます。

この絵を初めて見たときに、どうして素足なのに道行を着ているんだろう?と不思議だったのですが、袖をかき合わせているので襟元が道行のかたちに見えてしまったからでした(よく見たらそもそも裾が羽織だった。。)。そして羽織を着ているのは、早朝で冷えていたからということなのですね。
ちなみに長襦袢を着ないで肌襦袢(または素肌)の上に袷の小紋を着ているのは素袷(すあわせ)と言って、大正初期に粋な女性姿として流行していた着こなしでした。素足も同じく流行っていたそうです。

 

鏑木清方《新富町》(1930)東京国立近代美術館蔵

 

《新富町》の女性は、路を急ぐ新富芸者。

女性の髪はつぶし島田(芸者に多い髪型)、黒襟の着物に雨下駄を履き、蛇の目傘を指しています。
蛇の目傘は、柄の部分の木目まで丁寧に描かれていてため息もの。
着物の袖から覗く襦袢は紅葉と菊の柄で、秋の雨であることがわかります。
この絵も羽織の裏地の赤が、渋い色味の絵の中でとても映えています。


後ろの建物は新富座で、「仮名手本忠臣蔵 五段目」の絵看板が小さく描かれています。
新富座は明治5年(1872)に守田屋が猿若町から新富町に引っ越して明治8年(1875)に改称したもので、翌年に焼失しますが、明治11年には当時の最先端であるガス燈を備えて新築開場。
大正12年(1932)の関東大震災で焼失するまで多くの人々に愛されました。

(showcase.meijitaisho.netより
    明治11年(1878)に再建されたあとの新富座)

 

 

鏑木清方《浜町河岸》(1930)東京国立近代美術館蔵

 

3部作の最後は《浜町河岸》。
描かれているのは踊りの稽古帰りの娘さん。
浜町にある藤間流の稽古帰りのようです。首を傾げて舞扇子を口元に、左手の袂を掬っているのは習った踊りの所作を思い出しているのでしょうか。

着物は紫地に松竹梅模様、裾には中に着た青い流水紋の着物がのぞきます。
松竹梅の柄は青い絞り地になっていて、流水紋の色味とマッチしています。
足袋を履いているのは稽古帰りだから?でも綿の入った着物も重ねているので、寒い季節のよう。羽織ものはないので真冬ではないのかしら。。

頭にはまるで生花のようなバラの簪、右側に挿している簪は絞りでしょうか?不思議なかたち。。。

 

町娘さんの後ろには、隅田川に架かる新大橋と、対岸の深川安宅町の風景。
新大橋は清方が浜町に住んでいた頃は木橋でしたが、明治45年(1912)に鉄橋に架け替えられました。
橋の対岸の深川安宅町には大きな火の見櫓があり、関東大震災前まで残っていたと言われます。この火の見櫓は、歌川広重の《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》の中にも見ることができます。

 

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」(1857)

 

右上に小さく火の見櫓が描いてあります。

 

火の見櫓とは火事をいち早く見つけられるようにつくられた見張り台で、火の見櫓の周りは火事が起きたときに避難する「火除け地」でした。
普段は水茶屋や蕎麦屋、寿司屋などの店が集まる人々の憩いの場だったそうです。

 

さいごに

今回の特別公開では、他にも重要文化財である《三遊亭円朝像》や十二幅対の《明治風俗十二ヶ月》、六曲一双の屏風《隅田河舟遊》、弟子の伊東深水が描いた《清方先生寿像》なども展示され、何とも贅沢でした。
個人的には《隅田河舟遊》の屏風が素晴らしかったので、是非もう一度お目にかかりたいです。

 

鏑木清方《隅田河舟遊》屏風(1914)

 

この屏風の右隻に描かれた人形師と人形の顔の描き分けがすごい。小堤の男性の表情もすごく感情が宿ってる。
左隻の子供ちゃんも大好きです。もっと見ていたかったー。

 

《明治風俗十二ヶ月》も、全体をひいて見ると表装が4ヶ月ごとに変わっています。着物好きとしては震えるほど嬉しい、通年を通しての作品。
「夏に着ていたこの単衣を秋に繕って袷にしているのか!」など興奮してしまいました。見どころたくさんの12幅です。

(写真:美術展ナビより)

 

3部作に次にお目にかかれるのは2022年、春に東京と京都の国立近代美術館で清方没後50年の回顧展を予定しているそうです。

今から待ち遠しいですね。